経営陣の視察・表敬訪問における通訳:言葉が正しくても摩擦は起きる

日本本社から役員が到着する。空港からホテルへ直行し、翌朝には現地法人の会議室で、工場長以下の幹部と初めて顔を合わせる。この種の視察では、名刺交換の一分間や、誰がどこに座るかという数秒の判断が、その後数日間の空気を決めてしまうことがある。通訳者が一語一句を正確に訳していても、その場の進め方そのものがどちらかの側の期待とずれていれば、摩擦は言葉の外側で生まれる。役員視察や表敬訪問の通訳に求められるのは、発言を訳す力だけではなく、その場で何が起きているかを読み、必要なら一言添える判断力である。
なぜ「正確な逐語訳」だけでは足りないのか
通訳の技術的な正確さと、その場が円滑に進むかどうかは、別の問題である。日本とスペイン・カタルーニャの商習慣には、言葉のレベルでは現れない違いがいくつも存在する。名刺の扱い方、発言の直接さ、会議での上下関係の示し方、意思決定に至るまでの時間感覚。これらはどれもマナー講座の一項目のように見えるかもしれないが、実際には交渉の内容そのものに影響する。通訳者がこの違いに気づかず、双方の発言をただ言語間で置き換えるだけに徹してしまうと、正確に訳されているにもかかわらず、意図が正しく伝わらない場面が生まれる。
カタルーニャには230社の日本企業が拠点を構えており、Denso、Tachi-S、Calsonic Kanseiといった自動車部品メーカーや、Hitachi、Sony、Omronのような電機・ICT企業が、日常的に本社との往来を続けている。役員視察や年次監査、合弁先との協議はこうした企業にとって年間予定の一部であり、決して珍しい出来事ではない。だからこそ、その場で起きる小さなずれの積み重ねが、繰り返し発生する実務上のコストになる。
名刺交換で実際に何が違うのか
日本側の名刺交換には、両手で渡す、相手の名刺を両手で受け取る、その場でしまわずテーブルの上に置いておく、といった一連の所作が伴う。スペイン側にこの作法はなく、名刺は挨拶の後に片手で交換され、多くの場合すぐにポケットや名刺入れにしまわれる。どちらが正しいという話ではない。問題は、日本側の役員がこの所作の違いを「敬意が足りない」と受け取りかねない一方で、スペイン側は自分たちが何か失礼をしたという自覚すら持たない、という非対称性にある。
経験のある通訳者は、会議が始まる前にこの場面を見越している。名刺をすぐにしまわれても、それがスペイン側の通常の振る舞いであり、他意はないことを、必要であれば日本側に一言添えて伝える。逆に、日本側が名刺を両手で丁寧に扱う様子について、スペイン側から質問が出れば、その意味を簡潔に説明する。これは通訳の仕事の外にあるように見えて、実際には誤解が生まれる前にそれを防ぐ、通訳者にしかできない役割である。
お辞儀の角度も、無言のメッセージになります
名刺の扱いと並んで見落とされがちなのが、お辞儀の使い分けである。日本のビジネスマナーでは、軽い会釈がおよそ15度、一般的な敬礼が30度、深い謝意や謝罪を示す最敬礼が45度というように、角度によって示す気持ちの重みが変わる。スペイン側にこの型はなく、挨拶の基本は握手であり、頭を下げる習慣そのものがない。通訳者がこの違いを心得ていれば、日本側の役員が深く頭を下げた場面で、スペイン側がその意味を測りかねている様子に気づき、必要であれば一言添えて説明できる。
視察の日程や人数も、通訳の手配に影響する要素である。日本側の役員は3人から5人程度の少人数で訪れることが多く、日程は2日から3日で組まれるのが一般的である。3日間を超える視察では、通訳者を1人体制ではなく2人体制にし、日ごとに交代させることが望ましい。長時間にわたる複数の会議を1人だけで担うと、後半になるほど訳出の精度が落ちるリスクが高まるためである。手土産の相場にも触れておく価値がある。案件の規模にもよるが、5,000円から1万円程度が一般的な目安とされ、金額の多寡よりも日本側から差し出す行為そのものに意味がある。渡すタイミングは、名刺交換の直後ではなく、会議の冒頭か終盤が一般的である。初回の視察は、移動や工場見学を含めると1日8時間から10時間に及ぶことも珍しくなく、通訳者の集中力を保つための休憩の設計も重要になる。視察後の報告書は、通常48時間以内に日本本社の担当役員へ提出されるのが一般的で、通訳者が同席時に取ったメモがあれば、この作成時間を大きく短縮できる。参加人数が6人を超える大人数の視察になると、席次と発言順の調整だけで開始前の10分から15分を要することもあり、通訳者が進行役と事前に段取りを合わせておくことが助けになる。
「はっきり言わない」ことが誤解を生む場面
日本語の商談では、反対意見や懸念が「検討します」「難しいかもしれません」といった間接的な言い回しで示されることが多い。これは曖昧さではなく、対立を避けながら意思を伝えるための確立された話法である。スペイン語の商習慣では、同じ内容がより直接的な言葉で表現される傾向が強く、「難しいかもしれません」を字面どおりに訳すと、スペイン側には単なる先送りや保留として受け取られ、実質的な反対であるという含意が抜け落ちてしまう。
逆の方向でも同じことが起きる。スペイン側が率直に懸念や不満を述べた場合、それを日本語にそのまま直訳すると、日本側には想定以上に強い態度、場合によっては非難として響くことがある。優れた通訳者は、発言の内容だけでなく、その発言が両文化の中でどの程度の強さを持つ表現なのかを踏まえて訳す。これは意訳や忖度ではない。発言者が伝えようとした実際の重みを、受け手の言語の中で再現する作業である。
会議室の席次と発言順が示すもの
日本側の会議室では、上座と下座、発言する順番が役職に沿って暗黙に決まっていることが多い。年長者や役職上位者が最初に発言し、若手や担当者はその後に続く。スペイン・カタルーニャの会議ではこの慣習はゆるやかで、役職に関わらず担当者が直接発言することも珍しくない。
視察の場でありがちなのは、日本側の役員が到着した瞬間、スペイン側の現地スタッフが役職を問わず気さくに話しかけてしまう場面である。悪意はまったくなく、むしろ歓迎の表れなのだが、日本側がそれを組織としての序列への配慮不足と感じることがある。通訳者がこの力学を理解していれば、紹介の順番や着席の案内を通じて、双方が心地よく感じる進行を自然に助けることができる。言葉を訳す前の、数秒の場のセッティングが、その後の会話の質を左右する。
意思決定の速さが違うと、何が起きるか
スペイン側の担当者が会議の場で前向きな返答を得られると、数日以内に契約条件や次のステップが固まると期待することがある。しかし日本側の意思決定は、多くの場合、会議室の外にある社内の合意形成、いわゆる稟議のプロセスを経てから正式なものになる。この時間差は、通訳の質とは無関係に生じる構造的なものだが、説明がなければ、スペイン側は「前向きな返答をもらったのに、なぜ何も進まないのか」という誤解を抱きやすい。
この稟議のプロセスには、部門間の合意形成を含めると、10営業日から15営業日、案件によっては1か月以上を要することもある。通訳者がこの慣行を知っていれば、会議の場で「持ち帰って検討します」という発言が出た時点で、それが拒否ではなく通常の手続きであることを、必要に応じて補足できる。逆に、スペイン側が早い決定を求める背景、四半期の予算サイクルや取締役会の日程といった事情を、日本側に伝えることもできる。どちらの説明も、発言そのものの翻訳には含まれていない。だが、それを添えるかどうかで、視察全体の印象は大きく変わる。
通訳者に何を伝えておくべきか
役員視察や表敬訪問の通訳を依頼する際は、単に日時と場所を伝えるだけでなく、参加者の役職と人数、視察の目的(工場見学なのか、契約交渉なのか、単なる関係構築なのか)、そして過去に同様の訪問でどのような場面があったかを共有しておくとよい。この情報があれば、通訳者は当日その場で初めて力学を読み取るのではなく、あらかじめ想定したうえで臨むことができる。
汎用的な通訳者でも、こうした場の機微に触れた経験がなければ、言葉の正確さだけに集中してしまいがちである。それ自体は誠実な仕事だが、役員視察という場では、言葉の外側にある要素まで見通せる通訳者かどうかが、訪問の成否を分けることが少なくない。
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